山崎研究室

近代史と鉄道から語る山崎隆の都市文明講座

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第3回 「三軒茶屋」 編

1月某日。
今回は「三軒茶屋」を訪れた。
世田谷通り沿いのパーキングスペースに愛車を停めた。
ランチをとるために、レストランを探し始めた。
途中、レトロな雰囲気が漂う路地裏を発見したので、ちょっと覗いてみる。
吸い込まれるように異空間に入っていく。
まるで、昭和初期にタイムスリップしたようだ。
レストランを探していたのだが、洋食屋という感じか。
換気扇の排煙からは、ディープな油の香りがする。
かつて、ここに、どんな人々が集ったのか…。
イマジネーションをふくらませる。

三軒茶屋周辺の一帯は、もとは農村地帯であり、将軍の鷹場でもあった。
鷹場では、たまにしか訪れない将軍のために鳥類の殺生が禁止されていたので、
周辺の野鳥たちには、安全な暮らしが出来るエリアだったに違いない。
狩場であるにもかかわらず、実態は、サンクチュアリーだったのだ。

そんな鳥たちの楽園も、近代に入り、
玉川電気鉄道の開通と関東大震災を契機に、市街化が進んだ。
戦前の周辺は、陸軍の練兵場や陸軍衛生材料廠があった。
砲兵連隊、重砲兵連隊、機甲整備学校などの部隊の兵営も集中していた。
そういった軍用地の一部は、いまでも防衛省や陸上自衛隊が転用している。
また、昭和女子大や駒場高校、都営住宅にも転用された。
ここも、いずれ六本木ミッドタウンのように開発されるのだろうか。

三軒茶屋の商店街は、当初、軍人を相手に栄えた街という側面も持っていた。
しかし、同じ軍人相手の商店街と言っても「神楽坂」とはイメージが異なる。
神楽坂は、三宅坂の将校以上を相手にする料亭の街である。
三軒茶屋は、下士官以下を相手にする酒場の街である。
きっと酒場の周囲では、上等兵が新兵を鉄拳制裁するような、
そういう日常が繰り返される喧噪の街だったはずである。
だから、街の品格が違う。三軒茶屋に芸者はいない。

路地裏を徘徊していると、どこからか怒声が聞こえた。
「山崎二等兵!貴様、たるんどるぞ!」。空耳か?
そして、路地裏を抜けた。そこには、我にかえる自分がいた。


そうこうしているうちに「喰うてけへんか?すずらん通り」の看板が見えた。
この通りは、パチンコ店や、今どきキャバレー(?)も隣接する飲食店街だ。
その中で唯一、瀟洒な雰囲気のビストロに入った。
生真面目そうな店長らしき人が、注文をきく。
そのうち、周辺のOLたちで満席になっていった。

女性が苦手な私は、周波数の高い音声に包囲されて、
居心地が良いはずも無く、萎縮しながらフォークを動かした。
いまやオッサン化している我が女性アシスタントも、
どちらかというと無口なので、不快感をあらわににしている。
「サッサとメシ食って、もう店を出よう…」。

三軒茶屋を勘違いしている人がいる。
ここは、おしゃれな街なんかではない。
庶民的というか、実は世田谷区の下町である。
渋谷からの利便性に加え、バス路線も多く交通利便性に優れているが、
賃貸マーケットとして分析した場合、
アッパーミドルクラスや富裕層の子育てファミリーには人気が無い。
むしろ、シングル層からの人気が圧倒的に高い。
だから三軒茶屋でマンションの資産価値を考えるなら、
大型ファミリータイプではなく、専用面積が小さなタイプの方が効率的である。

これから、ワンルームを管理する不動産業者の社長との打ち合わせだ。
三茶のシンボル(?)のキャロットタワーを横目に見ながら、
颯爽と愛車に乗ろうとしたら、ガードレールを跨げなかった。
やはり私の足は、客観的に分析すると、短いのかもしれない…。

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