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山崎研究室
鉄道の歴史から辿る山崎隆の都市文明講座
第14回 「日本における鉄道の歴史と井上勝」 編
平成23年10月某日
はじめに、鉄道を知るためには、まずは井上勝の墓に参ろうと思った。
日本の「鉄道の父」と呼ばれたお方である。
私は、品川駅の花屋で小さな花束を買った。
そして、タクシーで北品川の東海寺大山墓地に向かう。
その前に、一応、鉄道の歴史について概略を整理しておこうと思う。
以下は、私の学説だ。
まず、なぜ、日本の北海道から九州まで、全国に鉄道が敷かれたのか?
その理由を考えてみたい。
我々にとって、それは、生まれた時から既にそうなっていたものなので、
いまさら、そんなことを誰も考えたこと無いだろう。
そこに盲点がある。
まず第一の理由は、欧米列強の植民地支配から国を守るためである。
要するに戦争の準備をするためと言い換えることもできる。
鉄道が敷かれたのは、殖産興業に邁進する時代の前なのだから。
はじめに鉄道ありき。次に国防ありき。最後に殖産興業ありき。
この順番は変わらない。
当時、有色人種にとって、鉄道は、欧米列強が世界の植民地化を進め、
搾取の効率を良くするための輸送手段に過ぎなかった。
「殖産興業のための鉄道」という説明がなされることがあるが、
それは明らかに違う。
そういう説明のロジックは、欧米列強のロジックだ。
つまりイギリスのように、七つの海の制海権を掌握し、
奴隷貿易を行い、アフリカやインドで有色人種を虐殺しまくり、
世界中の天然資源を欲しいままにし、産業革命を達成し、
圧倒的な列強の地位を確立した後のロジックなのである。
まずは奴隷にされない、植民地にされない。
できれば、その後に経済力をつけて、殖産興業に邁進したい。
大至急、戦争に負けない国を創りたい。
それが、日本における、鉄道という近代技術に与えられた使命である。
有色人種で初めて自国に鉄道網を敷いた、
この日本の特殊事情を理解しておかないと、
歴史的な文脈を読みちがえてしまうのだ。
我々は、愚劣な日教組による知的拘束から解放される必要がある。
歴史の歪曲理解を強制されるということは、一種の洗脳である。
我々は、ロジックを読み解く知性を奪われないように心掛けなければならない。
鉄道の歴史とは、生麦事件、薩英戦争、列強艦隊の下関砲撃という文脈から始まり、
そして最終的には大東亜戦争に突入していったという文脈の中で捉えるべきもので、
堪えがたきを堪えてきた日本人の壮大な叙情詩の一部なのである。
敗戦後は、東亜の諸国も独立し、高度成長期を経て、
日本の鉄道技術も輸出されるようになった。
昨今までの我々は、平穏に経済成長が続くように錯覚していた。
しかしながら、ここに新たな文脈が生じている。
欧米人の発明した金融資本主義の仕組みが風前の灯火となっているのだ。
これから、どうなるのだろうか。
彼らの自業自得と言ってしまえば、それまでだが、
日本も、その影響をもろに受けるだろうことは間違いない。
はた迷惑な話である。
そして、鉄道も、その影響を受けるだろう。
きっと廃線も増えるだろう。
これから、日本の鉄道は、どうなるのか。
その未来を占うためにも、歴史的な文脈を知る必要がある。
さて、日本人が鉄道の技術を直接的に知ったのはいつ頃か。
それは幕末である。
この「直接的に」という意味は、事前に長崎で、
オランダからの耳知識は得ていたということである。
幕府は、当時のアジアの置かれた状況やアヘン戦争などの情報も得ていた。
嘉永3(1853)年、黒船で来航したペリーが、
幕府への献上品として鉄道模型を日本に持ち込んだのが、
最初の、鉄道技術との遭遇である。
この蒸気機関車の模型は精巧で、実際に蒸気で動くものだった。
開国を迫る目的で持ち込んだ模型は、
白人の高度な技術力を見せつけることによって、
日本人を驚かし、恐怖心を植えつけるつもりのものだったらしい。
だが、日本人は別に驚きもしなかった。
ただ単純に面白がっただけ…。好奇心の対象に過ぎなかった。
他の有色人種に通じたコケ脅しは日本人には効かなかった。
だが、しかし日本人は、鉄道という技術には大きな関心を寄せた。
かつての、種子島の鉄砲のように…。
余談だが、後日、ある男が、幕府から蒸気機関車の模型を提示されて、
それと同じものを即座に作ってしまったが者がいる。
“からくり人形”の職人、田中久重である。
後に万年時計などを製作した凄腕職人の田中にとっては、
蒸気機関など、たいした技術ではなかったのだ。
この田中こそは、後の東芝(東京芝浦製作所)の創業者となる人物である。
さて、またテーマを鉄道に戻す。脱線注意なのだ。
凄惨な結末となった生麦事件の翌年、すなわち文久3(1863)年、
長州藩士の某5人は、密かに横浜港からイギリスへと旅に出た。
この某5人とは、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三である。
5人はロンドン大学に入学し、近代化に必要な知識を学んだ。
そこで鉄道や鉱山の分野を専攻したのが、井上勝なのである。
彼は後に「鉄道の父」と呼ばれるようになる。
彼がこの世に存在しなければ、現在の日本の優れた鉄道網は無かっただろう。
イギリスへの密航後、明治元(1868)年に帰国して、
工部省の鉄道責任者となった井上は、
明治5年には「新橋~横浜」で日本初の鉄道を開通させた。
その後も、全国各地で突貫工事が進められ、
22年後の明治27年の時点では、
青森から広島までと、小倉から福岡までと、
概ね、青森から福岡までの区間が鉄道と海運で結ばれていた。
広島から小倉までは内海なので、安定した兵站線が完成したことになる。
この明治27年というのは、朝鮮への出兵と日清戦争が始まった年である。
山河が多く地形の険しい日本列島の北から南を、
井上は、たったの22年間をもって繋げてしまった。
そもそも当時の技術力や資金力を鑑みて、そんなことが可能なのか?
現在のような掘削機やブルドーザーなどが無い時代に、そんなことが可能なのか?
もしかして、現在でも難しいのではないかと思う…。
私には、奇跡にしか見えない。
まったく、当時の日本人の凄さといったら、理解不能なのである。
本当に、アホでグータラな、この私の祖先なのか?
この偉業によって、迅速な徴兵制も確立した。
各連隊駐屯地からの総動員体制が機能するようになった。
同時に石炭などの鉱物資源の採掘と物流網も整備され始めた。
そして、明治37年の日露戦争までには、
北海道の旭川から長崎の軍港、佐世保まで、
ほぼ全国主要都市のすべてを繋げる鉄道網が敷設された。
鉄道は、超大国ロシアを破るための兵站として大活躍をした。
もともと沿岸砲台に設置されていた口径28センチの榴弾砲も、
難攻不落の旅順要塞の攻撃に使われた。
この巨大な大砲は、分解され、鉄道により輸送されていた。
結局のところ、当初の鉄道敷設の目的は、
近代産業を興すインフラとしてよりも、
むしろ戦争遂行能力の拡充を優先して計画された。
そう考えるべきである。
なぜなら、そもそも当時の日本には、
外貨が稼げるほどの近代産業など存在していないし、
せいぜい絹や銀などの一次産品を輸出するだけの、
貧しい後進国だったからである。
目立った産業も経済力も無かった日本は、当然のごとく外貨にも不足した。
だから、政府はイギリスなど(ユダヤ系資本)から借金をせざるを得なかった。
借金をして「三笠」など最新式の軍艦を買った。
戦艦のような大型艦の造船技術が無かったのである。
もしも借金が出来なかったら日本海海戦は負けたであろう。
まさに危機一髪、薄氷を踏むような近代日本史の黎明期と言える。
従って、当初の鉄道の第一の目的は、兵站(ロジスティクス)である。
武器、弾薬、食料が途絶えた軍隊は敗退するしかないのだから。
軍隊の弱い国家には、産業革命も、殖産興業も、資本主義も、成立しない。
当時は、経済発展の前提条件として、そういう厳しい現実があった。
そのような危機意識の下で鉄道の敷設が進められた。
近代産業を興す前に戦争に負けてしまえば、植民地にされ、奴隷にされる。
軍事力は、近代化のための絶対的な前提条件である。
この冷厳な歴史の法則を知るべきである。
「鶏が先か、卵が先か」なのではない。
要するに、はじめは絶対に軍事力が先なのである。
それは、すなわち、はじめに鉄道ありきなのである。
日本では、鉄道は、軍需産業として産声を上げた。
また、植民地経営には、軍艦も必要だが、鉄道も必要だ。
軍艦で行けるのは、海や河まで。
陸の上は、鉄道だけ。
まだ自動車やトラックはありません。
荷物を運べるのは、馬かロバだけ…。
大陸における覇権維持では、鉄道ほど効率的な輸送力は存在しない。
ロシアの極東戦略も、シベリア鉄道の輸送能力によって制限されていた。
そういう軍事的、地政学的な視点から鉄道を考察するべきなのだ。
さて次に、では日露戦争に勝利した後の鉄道史はどうなったのか。
明治39(1906)年、南満州鉄道が営業を開始する。
初代の総裁は後藤新平、副総裁は中村是公である。
この通称「満鉄」は、鉄道会社であると同時に、大陸の殖産興業を推進した。
街づくりも含め、インフラの整備を遂行した。
今の大連も、満鉄が創った街なのである。
ちなみに大連は、もとは漢民族の街ではなく、満州民族の街である。
ここは、本来のシナではない。中国の定義は曖昧だ。
中国って、どこなのか。誰も分からない。
まさか、チベットは、中国じゃないだろう。
真面目なチベットのお坊様、焼身自殺しないで、お願い…。
日本では、不真面目なお坊様でも自殺しないんだから…。
また脱線してしまった。
脱線の痕跡を残さないように、
証拠を地中に埋めてしまおうかしら。
中国みたいに…。
さて大正期になると、蒸気機関車の生産も、徐々に国産化への体制が整い始めた。
大正2(1913)年には、本格的な国産機関車(9600系)が、
大量に生産されるようになった。
そして昭和9(1934)年、満鉄で運用が開始された「特急あじあ号」は、
時速130キロのスピードを誇る弾丸列車であった。
この技術は、新幹線の技術へと承継されていく。
さて再び、井上勝の話に戻す。
時代は明治26年まで巻き戻す。日清戦争の直前である。
この頃の井上は、鉄道を私欲に利用しようとする派閥との政争に嫌気がさしたのか、
鉄道庁長官を辞任した。
井上は生粋の愛国者であり、鉄道国有化論者であった。
だが、けっして隠居した訳ではなかった。
その後、明治29年、渋沢栄一や三菱の岩崎弥之助らの出資を得て、
汽車製造合資会社を設立し、以後、民間の資本家として、
国産蒸気機関車の製造と開発に情熱を傾けるようになった。
同時に、鉄道に係わる要職にも関与し続けた。
明治42年には、鉄道院の顧問に就任したのである。
そして、明治43(1910)年、
鉄道院顧問として欧州の鉄道を視察に出掛ける。
だが視察の途中、持病が悪化し、ロンドンで病死してしまう(享年68歳)。
当初から死を覚悟した上での海外視察だった。
生前、井上はこんな言葉を残している。
「吾が生涯は鉄道を以て始まり、すでに鉄道を以て老いたり」、
「まさに鉄道を以て死すべきのみ」と。
言葉通りの人生であった…。
遺言により、品川の東海寺大山墓地に葬られた。
東海道線と京浜東北線の合流ポイントにある、丘の上である。
その後、汽車製造合資会社は、様々な国産機関車などを製造した。
戦後は、初代新幹線(0系)の製造をも行うなどした。
そして、昭和47年には川崎重工に吸収合併された。
もしかすると、新幹線に重大事故が起きないのは、
井上勝が、新幹線の守護霊となっているからなのではないか。
信心深い私には、近頃そんな気がするのである。
日頃、なにげなく我々が利用している鉄道だが、
実は、こんな偉人の存在があってこそ、現在がある。
日本の恵まれた教育環境も、経済環境も、物流環境も、
そして住環境も、すべては鉄道のお陰である。
日本人は幸せだ。日本人に生まれて良かった。
私は、つくづく、そう思う。
やっと井上先生のお墓に着いた。ここは、丘の上である。
周囲を見渡すと、凄い立地だ。
まさに鉄道の大動脈を見下ろす丘の上なのである。
数メートル先の目の前には、新幹線が走り抜けていく。
丘の下には、京浜東北線や東海道線が見える。
「こんなに騒々しい墓地って、ありなのだろうか」。
そう思っってしまった。
私は、死しても鉄道の守護神となり続けている井上先生の執念を感じた。
轟音とともに新幹線が通過する墓前で、思わず涙をこらえながら手を合わせた。
「有り難う御座いました。お蔭様で日本も豊かになりました」と私は呟いた。
でも、それにしても、こんなに列車の騒音が激しい墓参は、生まれて始めてだ。
それで、お節介かもしれないが、井上先生に余計なことを言ってしまった。
もしかして、失礼をしてしまったのかもしれない。マズかったかな…。
「井上先生…、こんな騒々しい所で安らかに眠れるんですか?」。
私は、そう尋ねてしまったのだ。
すると、「アホか、お前は!」という返答に続いて、
「わしゃ、鉄道の運行時間内に眠ったことなど、この百年間ありゃせん」、
「お前と違って、仕事中に居眠りなどしないのだ!」。
そう聞こえてきたような気がした。
「そうですか。いまでも仕事中なのですね…」、
「でも、カシオペアのような寝台特急だって運行している訳だし」、
「そうしたら、いつ寝るんですか?」。
私の思考回路は、屁理屈で埋め尽くされているのだろうか。
呆れられてしまったのだろうか。
しかし、先生からの答えは返って来なかった…。
「やっぱ、ちょっと意地悪な質問だったのかなあ…」
そう思った矢先に、大きなドングリが頭の上にコツンと落ちてきた。