山崎研究室

鉄道の歴史から辿る山崎隆の都市文明講座

第16回 「軽井沢の歴史とは?」 編

平成24年9月某日

もうすぐ夏も終わろうとしていた。
私は、久しぶりに軽井沢を訪れた。

学生時代には友人の別荘があり、しばしばテニスをしに来ていた。
テニスの目的は、もちろん、パンチラではない。

さて、そんな私が、なぜ軽井沢に来たか。
クライアントが別荘を買い替えたいということで、現地調査に来たのだ。
旧軽にある土地を売り、また別の別荘を買う予定なのである。

詳細は、守秘義務があるので語れないが、
要するに、相続対策と資産運用が目的である。
そのために資産を組み換えるのである。

とりあえず私は、まずは蕎麦でも食べてから散策しようと思った。
中軽井沢駅前の「かぎもとや」にすることにした。
軽井沢

蕎麦屋を出て、調査を開始した。

軽井沢の土地の価格は、リーマン・ショック後は下がっている。
ビル・ゲイツが軽井沢に別荘を建てているという噂もある。
今は、お買い得の時期かもしれない。
軽井沢軽井沢

さて、そもそも軽井沢の魅力とは何か。
ここで歴史的な文脈で考えてみたいと思う。

もともとの軽井沢は、中山道の宿場町であった。

だが明治維新後は、参勤交代も無くなり、
特に地場産業と呼べるものも存在しなかったので、
次第に宿場の旅籠経営は苦しくなっていった。

そんな境遇に喘いでいた軽井沢だったが、
避暑地としての将来性を見出したのは、実は欧米人だった。
彼らは、近代化に邁進する東京の夏の暑さに堪えられなかったのだ。

当初、宣教師や英語の教師が、改造した旅籠に住み始めた。
そして最初に洋風の別荘を建てたのは英国公使だった。
明治20年前後のことである。
山の中に、小さな異国が生まれた。

その後、欧米人だけでなく、日本人も集まるようになった。
実業家、政治家、外交官など多彩な顔触れである。
上流階級層ご用達の街としての発展が始まった。

明治27年、佐藤萬平が万平ホテル(当初は、亀屋ホテル)を開業した。
その創業は、もちろん、江戸時代からの旅籠である。
この年に日清戦争が始まった。
軽井沢

日清戦争が始まる都市の前年、
横川駅と軽井沢駅の間でアプト式の鉄道が初めて導入された。
それまでは、馬車鉄道だった。

この頃の日英関係は蜜月だった。
そもそも薩長を支援したのが英国人の武器商人グラバーなのだから。

日英同盟が成立したのは、明治35年。
日本は七つの海を支配していた海軍国の同盟国となった。

さて、日清戦争時の連合艦隊旗艦は「松島」である。

だが、明治38年の日本海海戦時の旗艦は「三笠」になっていた。
東郷平八郎は、東洋のネルソンと呼ばれるようになっていった。

一方、日清戦争時の清の北洋艦隊旗艦は「定遠」である。

この一連の史実の裏に隠された文脈が複雑だ。

「松島」はフランス製。
「三笠」はイギリス製。
「定遠」はドイツ製。

日清戦争の勝利後、日本は三国干渉で大きな屈辱を味わった。
この三国とは、もちろん、露、仏、独である。

当時の複雑な世界情勢を垣間見る思いである。

現在、自衛隊の兵器の殆どは米国製である。
日露戦争時の戦艦「三笠」はポンド建てで、
しかもユダヤ系の金融資本から借金して調達された。

一方、自衛隊イージス艦などの兵器システムは、
当然、ドル建てで調達されている。
殆どの自衛艦は、日米の軍産複合体によって共同で製造されている。

装備されている兵器の製造元を知れば、
自ずと、その国の覇権の相関図が推定できる。

所詮、通貨は軍票である。
近代の日本は、ポンド圏からドル圏に移行させられた歴史である。

ポンドは、自らの意志で。
ドルは、強制的に。

安全保障と外交と通貨政策は、密接に関係している。
軍事力の後ろ盾が無い外交など外交の名に値しないであろう。

憲法改正を否定しながら、同時に日本の外交力を批判することは、
ロジックに整合性が無いことになる。

通貨自体に実体は無い。
債権証書も、回収できなければ、ただの紙に過ぎない。

これらロジックの本質が理解できないと、
大手新聞社の御用評論家と同レベルになってしまう。
マスコミの頭脳は哀れなほど幼稚だ。

弱肉強食の帝国主義や資本主義の世界に翻弄され続ける日本。
戦前の日本の軍事行動は、正当防衛の範疇である。

また余談が過ぎてしまった…。

ともかくも明治35年の日英同盟以降、
日本は国際社会の中でプレゼンスを増していった。
それと同時に、軽井沢も、国際色豊かに発展していった。
そういう歴史的な文脈が見える。

この、一見、優雅な避暑地では、
様々な形で社交や密談が行われたであろう。
もちろん謀略も練られたであろう。

大正に入ると、軽井沢のディベロップメントも始まった。
野沢源次郎、堤康次郎などが別荘地の開発を行うようになった。

小説家では、室生犀星芥川龍之介有島武郎川端康成をはじめ、
学習院の出身者を中心とする白樺派も特にこの地を愛好していた。

昭和に入るとゴルフのプレイも楽しめるようにもなった。
これが軽井沢ゴルフ倶楽部である。
当初は、隣地の別荘地の分譲によって得た資金などで整備されたゴルフ倶楽部であり、
戦後、白州次郎が会長をしていたことでも有名である。
ここは総理大臣でも会員になるのが厳しい名門の倶楽部である。

私は、かつて会員名簿を閲覧する機会を得たことがあるが、
会員の多くは、政治家、実業家、外交官などか、その子孫である。
まさに日本の近代史を創った人々の系譜か。

軽井沢は宣教師が開いた避暑地であり、従って、古い教会が多い。
軽井沢

ユニオン・チャーチの創立は明治26年。
この建物は大正7年に改築されたが、設計者は、ウィリアム・ヴォーリズ
教会の隣地にあるテニス・コートは、
天皇陛下と美智子妃のロマンスの舞台でもある。
軽井沢軽井沢軽井沢

昭和10年に建てられた聖パウロ・カトリック教会の設計は、
アントニン・レイモンドである。
彼は、フランク・ロイド・ライトの助手として、
帝国ホテルの設計にも関わった建築家である。
軽井沢軽井沢軽井沢

欧米人が長期で滞在する場合、必ず教会が必要だ。
彼らの多くは敬虔なキリスト教徒であり、日曜礼拝を欠かさない。

それ故に、布教だけでなく、街の発展にも大きく寄与した。

ダニエル・ノーマン牧師の別称は“軽井沢の村長”だった。
そしてその子、エドガートン・ノーマンはカナダの外交官として活躍した。
教会が建って、人が集まり、街が活性化する。
宗教的な施設が、都市文明のシナジー効果を生む。
この現象は、日本の門前町と同じ構造である。

有名な駐日米大使エドウィン・ライシャワーも宣教師の子であった。
彼の父オーガスト・ライシャワーは、明治学院と軽井沢とを頻繁に往来していたという。

こんな別荘地は、日本では軽井沢だけであろう。

集客力のある宗教施設がある街は衰退しない。
これは、世界中の都市文明の法則である。
軽井沢軽井沢軽井沢

また、当時、別荘の設計者として有名だったのは、
前述のアントニン・レイモンドである。

彼は、軽井沢にアトリエを構えて別荘の建築設計も請けていた。
そのアトリエの跡が、現在のペイネ美術館である。

そうして、瀟洒な別荘が数多く建てられていき、
街のあちこちには異国情緒たっぷりの景観をもたらした。

だが、日英同盟が廃棄されると、
軽井沢も米露の策略に翻弄されるようになった。
蒋介石毛沢東の陰謀も見落としてはならない。

東京がB29の空襲で危険になると、
軽井沢は、各国要人の疎開先となっていた。

その後は正式な中立地帯として連合国へと通告がなされ、
爆撃を受ける心配のない街として承認されていた。

一時的にせよ、軽井沢は“小さなスイス”になっていた。

戦後は、一時的にはGHQの避暑地としても利用された。
そして歴史の歩みとともに、徐々に現在の姿に変質していった。

結局、欧米人は日本人のキリスト教化には失敗した。
紆余曲折を経て、独特な建物や文化遺産だけが残った。
避暑と社交とグルメと買い物の街として、
如何にも唯物的な目的合理性を満たしたインフラだけが残った。

この地に建てられた教会は、結婚式場のような飾りモノではない。
正真正銘、本物の、布教を目的としたものだ。

「極東の野蛮人を教化して支配する」
軽井沢とは、白人が傲慢にもそう信じていた時代の残滓である。

私は日頃の愚行を悔い改めるため、
教会で懺悔をしようと一瞬思ったが、やめた。
軽井沢

日本人の私には、やはり、お寺が似合う。
さて、何と唱えようか。
南無阿弥陀仏か、般若心経か。

「とりあえず東京に帰ったら、祖先の墓前で懺悔をしよう」
「それとも靖国神社で懺悔をしようか」
「それとも永平寺で座禅でも組むか」

「そもそも、どうすれば煩悩から解脱できるのか?」
「いっそ煩悩にたっぷり浸れば、飽きて煩悩を忘れるのか?」
「もしかして酒池肉林は解脱の早道なのだろうか?」

私は、支離滅裂な妄想を抱きながら徒然なるままに散策を続けた。

「軽井沢って、面白いなぁ」
「別荘地の都市文明って面白いなぁ」
「次は箱根や伊豆あたりの都市文明の調査をしようかなぁ」
「それとも沖縄の恩納村か、北谷かなぁ」
「でも、紅葉の京都や奈良もいいよなぁ」
「先斗町や祇園も魅惑的だにゃ~」

私は、軽井沢だけでなく、
日本中の観光都市の都市文明に興味が涌いてきた。
同時に、寺院周辺の宗教都市にも興味が涌いてきた。

日本の宗教都市を支えているものは、もしかすると煩悩かもしれない。
そこが欧米の宗教都市と違うところではないか。

都市の成熟のためには、人間の煩悩が必要だ。
私の存在意義とは、もしかすると、そこにあるのかもしれない。
私は、何かを悟った気がした…。
軽井沢

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